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邑南町のむかし話

むかし話1 「むかしむかし あったげな」石見お楽しみテレホン協議会より引用

はらやまの観音様
 日本海は風一つ無いとても穏やかな凪で、浜田の漁師は沖へ沖へと漁を続け、魚もえっと獲れたげな。ところが夕方になると、今まで晴れていた空が、西の方に真っ黒な雲が出たかと思うと、見る見るうちに空いっぱいに広がり、突然強い風が吹きつけるようになったげな。今まで穏やかだった海が荒れ始め、大きな波が襲い掛かって来たげな。「こりゃ大変だ 早う帰らにゃ船が沈んでしまうで」真っ暗になった海を漁師たちは急いで浜田の港を目指して船を漕ぎ始めました。その時、真っ暗闇の中に、ポツンと一つの灯りが見えてきたげな。「あっ 灯りだ 灯りが見えた、あそこを目指せば陸地に着けるぞ」漁師たちは救われたような気持ちになって、灯りを目指して力いっぱい漕いで、とうとう浜田の港へ帰りんさったげな。それ以降、海が荒れると不思議なことに、山のほうに灯りがついて漁師たちは救われたげな。
 漁師たちは、この灯りがどこなのか、随分かかって探しんさって、ようやく、そこは原山の頂上に近い西側にある観音様を見つけんさったげな。
 それから浜田の漁師たちは毎年、この観音様にお礼参りをしんさったげな。それは「光る岩」言うて、今でもお年寄りからあがめられています。

船石のはなし
「なんと 山に不思議な石があるげな」「大きいばかりじゃないで、形が舟にそっくりだげな」、この噂は次々と村に伝わり、不思議な石を見に出かける人達で山は大きな賑わいになったげな。
 この舟の形をした石を見た人達は、想像以上に立派な石に驚いて、「こりゃ このまま山に置いといちゃあ勿体ないのぉ」と、お宮に運び奉納したいと、思いを一つにしんさったげな。
 「この重たい石を、どがあにぃして運びぁええかのぉ」と。10人でも、20人でも、100人かかっても石はびくともしませんかったげな。「やっぱり動かんのぉ」と諦めかけた時「雪の日に雪の上を滑らせて運んでみようや」と。皆は冬になり雪の降るのを待って、また石を運びに山に出かけんさったげな。
 何人かかってもびくともしなかった石が雪の上をゆっくりと動き始めたげな。真っ白な雪の上を大きな舟石が動く様は壮観で、ふもとの村人達も家の外に出てその様子を見守ったげな。
 やっとお宮に置かれた船石は、村人達の賛辞の言葉も知らぬげに、雨が振れば雨を、雪が降れば雪を、木の葉が降れば木の葉を、体に乗せ、どっしり大地に座っておりんさった。そのうち誰と言うことなく、舟石の水をイボに付けると、コロッとイボが落ちる、という者が出始めたげな。
 なぜか人知れぬようにそうっと行って、イボに付けるとますます良う効くげな、という話が遠くまで伝わり、船石の水にイボを取ってもらおうと、遠くから矢上のお宮までお参りに来んさる人が大勢おりんさったげな。

原山のやまんば
「やまんば」と言えば普通は恐ろしい形相をした老女の筈ですが、原山の山姥は心の優しい神様で、中腹の洞窟に住んで村人を助けた話がたくさん伝えられています。小掛谷の先大石の田植えには、いつも雇った人よりも一人早乙女が多い、そのつもりで一人分余計に昼飯を準備しておくと、どうしても一人分余ってしまいます。田植えをしている人数を数えると一人多い、誰言うとなく「ありゃ山姥ぁさんだろう」と言い合ったのは、あまりにも有名な話です。この山姥さん、実は矢上姫命だという話もあるんです。原山の山ン婆さんこと、矢上姫は安芸の宮島の厳姫と三瓶山の佐売姫と三人、年に何度も集まって村人が安心して暮らしていけるように話し合っておられた。   
 ある時その帰り道に、きれいな清水が湧き出る池があったので、そばの大きな石に子供を座らせ、手を洗おうとされたら、たくさんの蛭が血を吸おうと、寄ってきたげな。「こんなにたくさんの蛭が居ては、さぞや百姓が困るだろう」と言って、その中の主だった蛭を捕まえて口を捻り上げたげな。「これからは村人に吸いついても血は吸ってはならんぞ」と諄諄言い聞かせられたげな。それからというもの、この池の近くの蛭は人に吸いついても血は吸わなくなったので、村人はこの土地に「落ち子」という名をつけて徳をしたげな。その池は、今、墓地公園の近くにわずかに残り「落子」という地名が残っています。


山婆のしゃもじ
 邑南町の矢上では火舟と言う、お祭りが毎年旧暦の6月17日、今の暦では7月20日の晩に行われます。それは宮島の官舷祭と同じ晩なのですが、矢上と安芸の宮島の厳島神社の繋がりは「じゃもじ」と言われています。原山のふもとの小掛谷の先大石という家には昔、「山婆のしゃもじ」という物があって、大きな三粒のお米を入れて炊いたご飯を、このしゃもじで混ぜると、見る見るうちに釜いっぱいにご飯が増えると言われていました。ある時、旅の人がこの話を聞きつけ「そんな馬鹿げたことがあるものか、一晩泊まって試してやろう」と言うわけで、別に自分のしゃもじを持って一夜の宿を借り、お米を三粒炊かせて自分のしゃもじで混ぜたが一向に変わったことはない。それじゃあということで「山婆のしゃもじ」を出させて混ぜると、見る見るうちに釜いっぱいのご飯になったげな。
 「こりゃあ不思議だ、神業だ、神業のしゃもじに違いない」とすっかり感じいった旅人は、恭しくしゃもじを拝んだげな。この話で「山婆のしゃもじ」は一躍有名になり、その内に「こんなところに置いとっちゃあ勿体ない」と宮島の厳島神社へ納めんさったげな。「宮島のじゃもじ」と言えば知らない人がいないほど有名ですが、この「宮島のしゃもじ」と邑南町とは、こんなご縁があったと言う、むかし話でした。

今原の妙見様 
 昔々、日和の今原(こんばら)と言う所に大きな沼があったげな。ある日のこと、この沼を高い所から眺めている男が居ったげな。次の日に、その男は親兄弟を連れて、この沼にやって来て、調べてみると、思ったより浅いころがわかったげな。「これならほとりの山を削り込むと広い田んぼが出来るに違いない。力を合わせてやってみよう」と。それから、その男の一家は沼を埋める仕事にかかり、毎日毎日働いたげな。そうして大変な苦労の末、やっと広い田んぼが出来、米もたくさん作れるようになり、やがてその男は今原の長者と呼ばれるようになったげな。ところがその後、田んぼを作りすぎて水が不足するようになったげな。長者になったその男は、いろいろと心配し、人々に相談したところ、大田の里の妙見様と言う水の神様がおられると聞き、早速供を連れて大田の妙見様にお参りし、神様にお願いをして御分霊を戴いて帰り、お宮を建てて祭ったげな。そのお恵みでまた、みずが豊かになり栄えましたが、そのうち長者も亡くなり、日和の里が開けたので、一人去り二人去りして寂れていったげな。
 その頃、矢上には田んぼが多く、水が足りない所がたくさんあったげな。矢上の主だった人が相談して日和の今原の妙見様をお迎えしようと言う話がまとまり、柚木谷川の上流にお宮を建てて祭ったげな。それからは、矢上の田んぼも水に困ることが少なくなり、そのお宮は雨乞いのお宮として有名になったげな。祭りの満願の日には、皆が傘をさしてお参りをしんさったげな。

「むかしむかし あったげな」石見お楽しみテレホン協議会 から引用させて頂きました。一部言葉を方言に変更してあるところがあります。

矢上盆地

むかし話2 「むかしむかし あったげな」石見お楽しみテレホン協議会 から引用

左甚五郎とやまんば
昔、中野にある加茂神社に三重塔を建立したときの話です。この塔は左甚五郎さんを頼んで建立したということだが、「左甚五郎」さん知っとりんさるかな。
 その頃、日本一と言われた大工さんだげな。左甚五郎が彫った龍は、本物のように毎晩、近くの滝の水を飲みに出たというから凄いね。
 ところで、この左甚五郎さんの事を聞きつけて原山の山姥がやってきたげな。そして言うことには「甚五郎どん、あんたは日本一の大工さんじゃそうだが、この塔を一晩のうちに建てられるかな」と。これを聞いた甚五郎さんもさるもの「それはお易いこと、一晩で建ててみせよう」と言いんさったげな。そこで山姥は「あんたが一晩で建てんさるんなら、わしも一晩で布を織って、その布で原山を包んでみせよう。どっちが勝つかやってみようや」ということになったげな。
 「何 負けてなるものか」甚五郎さんは一晩中、一生懸命に仕事に励みんさったげな。ところが、明け方のなって、ふと原山を眺めた甚五郎さんは「あっ」と腰を抜かさんばかりに驚きんさったげな。原山はすでに一面白い布に包まれておったげな。「これにはかなわない」甚五郎さんは早々に荷物を片づけると、一目散に逃げ出してしまいんさったげな。日和を通り「川戸超しの月の夜」と言うところまで逃げて、振り返って見ると、何と、白い布と思ったのが月の光をわかったげな。悔しかったが引き返す気にもなれず、そのまま逃げていまいんさったげな。

抜けの神様
 矢上の後原(うしろばら)という所には、ちょうどお結びの形をした山があって、昔から「むすび山 むすび山」と親しまれておったげな。ところがこの山、昔は悪い癖があって大雨が降ると、ズズズー、と動き出したと言われ、山が動き出せば麓の村人は大慌てで、年寄りや子供の手を引いたり、牛を連れて庄屋さんの所までいつも逃げておったげな。ある年、どうしたことか大雨が度々降ったもんで、「むすび山」も右往左往する始末。村人もホトホト逃げることに疲れ果てんさったげな。「あの山、何とかならんもんかのぉ」と皆で相談したがサッパリ良い知恵がでません。そこで村一番の物知りと言われるお年寄りに相談しに行ったところ、「抜けの神様にお頼みする以外にゃなかろう」と言いんさったげな。
 そこで早速、むすび山の足元に椿の逆さ杭を打ち込んで祭壇をつくり、抜けの神様を祭ってみんなで七日七晩一心不乱に祈り続けんさったげな。そしたら、それからというもの雨が降っても、むすび山が動き出すことが無くなり、村人も安心して暮らせるようになったので、毎年お祭りをして神様に感謝をする習わしになったげな。
 山が動く、今で言えば山津波の事だと思われますが、それにしても椿の杭を打って土留めをし、あとは、神様に祈ったという昔の人達の素朴な姿が思い浮かばれますね。むすび山はそんな事とは知らぬ顔で、今も美しい姿を見せてくれています。

虫送りの由来
 毎年七月二十日、土用の入りには邑南町矢上の鹿子原(かねこばら)では虫送りという囃子が繰り出されます。この囃子の中心人物は藁人形の「実盛さん」ですが、これは八百年ほど前の源平合戦の逸話から出来ているのです。木曽義仲は平家の実盛を討ち取りましたが、実盛の戦いぶりを褒め、家来に命じて田んぼの水で実盛の生首を洗わせたといいます。ところが実盛の首についた血が田んぼへ流れ込んだためか、その田んぼには害虫がつかず、とても良い稲が出来たという訳です。そこでその御利益にあやかろうということから実盛の人形を作って害虫と一緒に村境まで皆で送り出そうというのが、この虫送り行事の由来だそうです。
 それは、実盛が戦いに力尽きた時、不覚にも田んぼの稲株のせいだ「このうえは生まれ変わって害虫になり年々歳歳、稲を食い荒らしてやる」と言い残して首をはねられたということです。そこでその霊を慰めて害虫の被害から逃れようというのが虫送りだという訳。しかし、そのどちらにしても稲の害虫を退治する薬が無かった昔の人達は、何とか難を逃れようと実盛さんと害虫を川にそって村境まで送り出そうとし、送りつけられた川下の村ではかなわんから、また次の村まで送る行事があったと言われています。しかし今では皆廃れて、矢上の鹿子原だけ三百年位前から続けられていたのが、島根県の無形文化財に指定されている訳です。


「むかしむかし あったげな」石見お楽しみテレホン協議会 から引用させて頂きました。一部言葉を方言に変更してあるところがあります。

鹿子原の虫送り
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